KOTOの理科的つぶやき

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高さ17mの濁流に飲まれた町「田老」に訪れました。ー3.11津波被災地の”今”ー

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はじめに

小学生の頃、家族皆で岩手沿岸に旅行に行きました。

雲ひとつない青空と、境目がわからない程の、見渡す限りの群青色の大海原。
リアス式海岸の断崖絶壁、雄大な大自然の絶景を、しょっぱい海風を助手席の窓の隙間から受けながら眺めていました。
子供心ながらに、いたく感動したことを覚えています。

沿岸のレストランで、家族で海の幸を堪能しました。
何の魚だったか忘れましたが、干物を焼いて食べました。
さっきまであんなに乾いていたのに、焼くと脂がジュージュー出てくる様子を不思議に思いました。

そんな大切な思い出を、強烈に思い出す出来事が、数年後の3月11日に起こりました。
テレビの映像から流れる映像は、おおよそ現実に起こっているものとは思えずにいました。



その日

その日、まさしく家族と車で通った、あの地域の映像がこの目に飛び込んできました。
絶望感、無力感、喪失感…とても一言では言い表せない感情が押し寄せてきました。

震災当時、私は高校生でした。
数日後、高校の生徒会の友人が近くの駅前で募金活動をしているという情報を聞きました。
しかし恥ずかしいことに、情けないことに、ただ純粋に「彼らはすごいなあ」と思うだけで、自分も何か協力したり、何か行動を起こそうと考えることはありませんでした。

数年が経過し、当時の自分の気持ちを振り返ります。

何か行動を起こす彼らは本当に立派で尊敬していましたし、大した額ではありませんでしたが多少の募金はしました。
けれど、どこかで「自分で何かしたところで何が変わるかわからないし、だいいち何をしていいのかもわからない。」こんな風に考えていたのだと思います。

正直に言って、おそらく自分の住む街が被害を受けていたとしたら、また違った心境だったのかもしれません。
もしかしたら自分の頭で考え、自分の手でなんとかしようとしたかもわかりません。
あえて強い言葉で言ってしまうと、心のどこかで「他人事」だと思っていたのでしょう。
いや、おそらくそうです。知り合いの範囲で被災した者はいなかったし、どうも自分ごとに思えなかったように思うのです。

そして震災のあと、何度か海外に行く経験がありました。
ときどき震災のことや、フクシマのことについて聞かれる事もありました。

そしてふと日本の外に出て初めて、「同じ日本人ではないか」だということに気づいたのです。
関東人、東北人、被災者、非被災者…
勝手にこんな線引きをして、言い訳を考えて、目をそらして、何も動かなかった自分を恥ずかしく思うようになりました。

そしていつしかもう一度この足でその地に降り立ち、この目で現場を見て、この耳で現地の方の声を聞き、そしてその経験を誰かに伝えたいという思いが生まれました。

そしてこれを、実行に移してきました。
この記事を通して、まさに今、画面の前の「あなた」に伝えようとしています。
ぜひ、どうか最後までご覧頂けたらと思います。



田老地区へ行く

私は前日、ヒッチハイクで千葉から盛岡まで移動していました。
当日の朝、宮古方面行きのバスと、復旧した三陸鉄道を乗り継いで田老地区に到着しました。
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10年以上ぶりの岩手の沿岸の地。
天気もあまり晴れやかではなかったこともあり、前に家族と来た時とは違った印象を受けました。
テレビで見たあの恐ろしい津波が襲った地、確かに降り立っている。
あの映像を思い出し、今確かに、あの地にいる。
このことを実感した瞬間、ものすごい表し難い感情に襲われました。

恐怖、絶望、焦燥、憤怒、悲愴…
これらを混ぜたものに近い感情でしたが、未だに正確に言語化できません。

数分経ち、このあたりを歩いて回りました。
7年が経過した今、瓦礫等については少なくとも私が歩いた範囲は片付いていました。 f:id:kotosanagi:20180421122245j:plain

かつて民家が立ち並んでいたはずの場所には、今はソーラーパネルが広大な土地に並んでいました。
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昼食は「はなや蕎麦たろう」というお蕎麦屋さんで頂きました。
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蕎麦畑はソーラーパネルの近くにあるそうで、そこで採れたものを頂きました。
津波で荒廃した土地を立て直した、まさに復興のシンボルのようなお蕎麦。
普段食べる蕎麦とは違った「あたたかさ」を感じた気がしました。



学ぶ防災ガイド

お蕎麦をいただいた後、事前に予約していた「学ぶ防災ガイド」のガイドさんと合流しました。
これは津波被害を受けた田老の防潮堤やその周辺施設を実際に回りながら、地元の方にその現状を伝えていただくものとなっています。
(これは有料のガイドではあるのですが、これは宮古市に納めて復興の支援に充てられるとのことです。)



防潮堤

この田老という地域は昔から「津波太郎(田老)」と呼ばれるほど、津波の被害が多い地域として知られていたそうです。
その背景から全長2600m、高さ10mもの巨大な防潮堤が建てられました。
この防潮堤はその世界一の巨大さから、“日本の万里の長城”と国内外から評価されていたそうです。

ガイドさんに案内され、防潮堤に登りました。
しかし、その津波はこの防潮堤の最上部よりも5m以上もの高さで町を飲み込んで言ったと言います。
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その世界一の堤防を頼りにしてしまったが為に、逃げ遅れてしまった方は少なくないそうです。
この防潮堤の近く、海の反対側の地上にいると、その向こう側の海の様子が見えなくなってしまいます。

また津波の高さを知らせる警報のサイレンが、停電のために3mの時点で途絶えてしまったそうです。
これらの要因が重なって、被害が大きくなってしまったのだとおっしゃっていました。



JFたろう製氷貯氷施設

その後、海岸近くのJFたろう製氷貯氷施設という施設を案内して頂きました。
その建物の外壁には、過去の津波の到達地点が記されていました。

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明治の津波の15.0m
昭和の津波の10.0m
そして平成の津波、3.11の17.3m
ガイドの方と比較して、いかに高いか、もはや想像を絶するものがありました。

後から調べてわかりましたが、平均的な電柱の高さは12mだそうです。
それからふと、外を歩いているときに気になって電柱の高さを見上げてしまいます。
電柱の頂点に登ってもなお5m以上の高さの濁流が町を襲ったという事実に、ただ声を失うばかりです。



たろう観光ホテル

最後に向かったのは、津波の惨禍を後世に伝える遺構となっている「たろう観光ホテル」です。

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f:id:kotosanagi:20180421123053j:plain 1階から3階は津波に流され、剥き出しになってしまっています。
そびえ立つこの建物を見ただけで、その凄惨さの一部が伝わりました。
幸いにも、ホテルの利用者は津波が来る前に全員避難は出来たそうです。
ただこのホテルの社長さんは、1人残って最上階である6階の一室からカメラを回して、その状況を映像に残したのです。

映像を撮ったその場所で、その映像を観る。

私はこのガイドの最後に、貴重な体験をさせて頂きました。

私は6階のその部屋から、その映像が撮影された場所と、まさしく同じ光景を窓から目にしました。
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今はソーラーパネルが立ち並んでいるその一帯は、その映像の冒頭では一面に住宅が建ち並んでいました。
ついさっき歩いた防潮堤や、製氷工場の姿もありました。

かつて、ニュースの映像で何度も津波の映像を見たことはあります。
しかしそれは、何か現実離れした印象を受けていました。
それは、そこが見知らぬ土地だからでしょうか。家のテレビを通して見ているからでしょうか。
その理由は未だにわかりません。

しかし映像を観ることで、そのイメージはリアルに脳内に結像されました。
まさに、数十分前に歩いた場所が、次々と濁流に飲み込まれていく様子を目にしました。

「電柱よりも高い濁流が、全てを飲み込んで押し寄せてくる」

津波の恐ろしさを表す際によく聞くフレーズですが、その映像から受ける恐ろしさの印象は全く異なりました。
まさに自分がその場にいるような錯覚、いや、まさしくその場所にいるのです。
時間をもトリップして、その現場をこの目で確かに目撃しているかのような感覚に陥りました。

その恐ろしさを助長するのが、そのスピードです。
防潮堤を超えてから、街を飲み込むまでの時間が、異常に早かったのです。
おそらく数分のうちに、窓から見える景色が一変しました。

地震発生から津波が来るまでは3,40分ほどあったと聞いています。
また防潮堤の存在により、壁の向こうの海の様子が見えません。
そのためか、逃げ遅れる方や避難をしなかった方は少なくなかったようです。



おわりに

「今まで大丈夫だったからって、今回も大丈夫だという保証はない」
これは防災ガイドの方から聞いた、最も印象的なフレーズです。

人生数十年生きてきて、津波に襲われなかったからといって今日津波の被害に合わないとは限りません。
そういう意味ではこれまでの人生経験は目の前の課題に対してときには役に立たない時があるのです。それどころか、かえって逃げ遅れてしまったり悪い影響が出てしまうこともあるということを学びました。

また現地の方から、考えさせられる言葉を聞きました。
「7年という時が経過して、現地の人の中でも少し風化してしまっていると感じる時がある。」
常日頃、そのことだけを思い考え続ける必要はないと思います。
ただ一度過ぎ去った過去の脅威は、時間が経ってしまうと現地の方でも中には一つの遠い記憶となってしまっている方もいるということを聞き、複雑な気持ちになりました。

このことについては、色んな意見があって然るべきこととは思います。
しかし私は目を背けるのではなく、同じ日本人として他人事ではないこの事実と向き合い、これを自分の中に落とし込み、他の誰かに伝えることでこの尊い教訓を生かしたいと思います。

この「同じ日本人」という視座は、日本を離れてはじめて気づいたことです。
そしておそらく地球を離れた宇宙飛行士の方なんかは、国籍は違えど同じ「地球人」という視座を持つのではないかと思います。
世界中で起こっている様々な事象も含めて、他人事ではなく自分事として捉えて考えることができたらいいなと思います。

この記事を通して、これを読んでいるあなたにとって、何か少しでも考えるきっかけになれれば嬉しいです。
そんな思いで、書きました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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またこの記事は、前回記事の続きとなっています。
よければこちらも是非ご覧ください。
koto-science.hatenablog.com