KOTOの理科的つぶやき

“知ることの楽しさ”を伝えるサイト

カレーと素因数分解〜カレーを分解し再構築する過程で学ぶ人生哲学〜

f:id:kotosanagi:20190303200515j:plain

2017年の9月、マレーシアで留学をした。
行く前から私は日本では食べられないような、現地ならではの食事を楽しみにしていた。

マレーシアの人口は、1割がインド系の民族で占められている。
つまり、街にはインド系の料理屋が溢れていた。
マレー系の味付けではあるらしいが、そこで初めて本格的なインドカレーを食べた。

と に か く お い し か っ た

そこで受けた衝撃はいまだに覚えている。
しかし、何の味がどうおいしいかは説明ができなかった。
とにかくおいしい。
その“おいしい”の正体を探ろうと、よく観察してみると、知らない香辛料のようなものがたくさん入っている。

固い葉っぱの様なものや、放射状の実?の様なもの。
確認できるものだけでも、初めて見るものだらけだった。
粉末状のスパイスなどについては、皆目見当もつかなかった。

そもそもこの時点では、カレーがどのような手順で作られているかも知らなかった。
その時からずっと悔しさの念を抱いていた。
こんなに複雑で味わい深い料理を食べているのに、「ん〜!うま〜い!!」しか言えないのだ。

これではまるで、おいしいワインを飲みながら
「ん〜!飲みやす〜い!!」(インスタに画像を上げながら)
とかやっている女子大生と変わらない。

とかいって酒苦手だからワイン飲めないのはここだけの秘密

とにかく私は、帰国して時間が経過するとともに、あのカレーがとにかく恋しくなった。
いつかまたあのカレーを食べに行きたい。
しかし簡単に食べれるものではない。
マレーシアに行くだけでも、多大な時間と費用がかかる。

…しかしある日、天啓のごとくその御言葉は降りてきた。

「カレーがなければ、自分で作ればいいじゃない」

その日から、カレーというものを理解しようと試みた。



材料調達

まず私は、スーパーに行って必要なスパイスを揃えることにした。

f:id:kotosanagi:20190303194004j:plain

せっかくなので、それぞれひとつひとつの匂いや味を確かめた。
この作業の中で多くの発見があった。

私はこれまでの20数年の人生で、幾度と無くカレーを食べてきた。
しかし、これまでカレーの味と呼んでいたソレは、それは混ぜ合わされたカオスだったことに気付いた。
ごちゃごちゃに混ざった複雑な構造を、俯瞰的に眺めて「かれーのあじだ。おいしい。」とか言っていたのである。
つまり黒い水性ペンのインクは、青系のインクや他の色が混ざってできているのと同じように、カレーもまた様々なスパイスが混ざってできていることを体感的に理解した。
これまでも知ってはいたが、取り立てて意識をする事がなかったと言ったほうが正確かもしれない。

一つ一つのスパイスの風味を身体に刻み付けるように、嗅覚と味覚に集中した。
それは新しい概念をインストールする行為だった。

もしくは、それは言語を習得する行為にも思えた。
今まで訳もわからず聞いていた洋楽が、英語学習をしている中で、歌詞を追い、意味を味わうことが出来るようになる感覚に近い。

それは対象のエッセンスを抜き出し、分解する行為だった。

例えば、“1620” という数字が目の前に現れたとする。
“1620”は”1620”であって、それ以上でもそれ以下でもない、ただの整数だ。

しかしある人はひらめく。
「コイツをバラしてみよう」

つまり、”1620”という数字を素因数分解する。

f:id:kotosanagi:20190303195446j:plain

「”1620”って”1620”でしょ?」と思っていたところで、別に普段生活していて何か困るわけでもない。
しかし「”1620”は、2を2つと3を4つと5を1つを混ぜたもの」と理解したとき、その対象に対する解像度がグッと一段引き上げられる感覚がある。

それはつまり、カレーのスパイスをそれぞれ嗅ぎ、味わった時の感覚だ。
今までは”1620”を、カレーの味だと認識していた。
それぞれの要素であるスパイスを体得する中で、カレーもまた素因数分解が可能であると理解した。

f:id:kotosanagi:20190303195459j:plain

かくして私は、カレーというものを理解するための第一歩を踏み出した。


調理

その後私は、何度かカレーを作ってみた。
そのうち最近のものを、カレーが出来上がるまでの様子をTwitterで実況した。

調理とは奥深い行為だ。
玉ねぎの切り方ひとつみても、ざく切りにするか、みじん切りにするか、もしくはミキサーにかけるかで、同じ食材でも仕上がりが変わる。
火の強さと時間、加熱する順番を変えてもまた仕上がりが変わる。

この調理方法の試行錯誤は、マレーシアで食べたあのカレーを再構築する行為だ。

カレーとしてそこそこ満足の行く仕上がりにはなってきたが、まだまだあのカレーには至らない。
道としてのカレーは、これからも修行が必要だ。



分解、そして再構築

ここまでカレーという対象物を、素材や作り方という要素を追いかけ分解し、それを再構築してきた。
これまではそもそも、カレーという対象物の要素すら知らなかった。
カレーのあの匂いはクミンであるとも知らなかったし、あの黄色の感じはターメリックによるものとも知らなかったし、カイエンペッパーつまり唐辛子を入れなければほとんど辛くならないことも知らなかった。

要素に分解して、それを理解し、再構築することは対象を理解することだ。

これはあらゆる対象において転用できる。
例えば木を描こうと、絵の具を使って、目の前の葉っぱの「その緑の感じ」を表現したいとする。
出来合いの絵の具の緑では、その1種類の色しか表せない。
もし緑色が青と黄色でできることを知っていたら、量を調整して混ぜ合わせることで無数の緑を表現できることとなる。



おわりに

カレーのスパイスを要素で抽出して、分解して理解することによって、カレーに対する味覚が以前よりも鋭くなった気がする。
写真で例えるなら、今まではピンボケだったのが、今は前よりくっきりと写っている感覚だ。

何か物事をより正確に理解したいとき、その要素を抽出し、それをどう組み立てるかについて、意識的でありたい。
おそらくカレーは将来的には趣味の域を超えないこととは思うが、私で言うと理科や教育などが主たる興味の対象だ。

これらの素因数はなんだろう。
それらをどう調理することが、最適なのだろう。
考えよう。

f:id:kotosanagi:20190303193908j:plain