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教師であるあなたが、美意識を高めなければならない理由。〜「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」書評記事〜

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こんにちは!読書ブロガーのKOTOです!
今回は山口周さんの「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」という本の書評を書いてみました。

学生時代は理科の先生になるために勉強していたので、基本的に理科系と教育系の本しか読んでいませんでした。
しかしある時「自分に興味のないこと=自分の伸びしろだ」と気づいた瞬間から、意識的に自分に興味のないジャンルの本にも手を伸ばし始めました。
その中でも「ビジネス」と「芸術」の2つのジャンルに、ハマりました。
この本は昨年のビジネス書大賞で準大賞を受賞した話題の作品で、かつ2つの要素を兼ね備えていることから、思わず読んでみたという運びです。

この本の一言まとめ 皆の正解が限られてしまったこの世界において、人びとに求められる能力は、論理的思考だけでなく、直感や感性などの美意識が重要。

以下、この本を通して得た3つの教訓を自分なりにまとめてみましたので、紹介していきたいと思います。



教訓1 サイエンスとアートの関係

筆者はこの作品の中で、「サイエンス的な価値観」と「アート的な価値観」について比較対象をしながら説明をしています。
サイエンス的な価値観とは、数的根拠や論理を軸にした考え方です。
アート的な価値観とは、直感や感覚を軸にした考え方です。

これらの価値観は、どちらかが優れていてどちらかが劣っている、といった類の話ではないと言う事ははじめに断っています。
しかし、今のビジネスの世界において、重視されすぎているのはサイエンス的な価値観です。

何か新しい商品の提案をする場面で比べましょう。
サイエンス的な人「この新商品は〇〇の点で、他社製品よりも優れています。〇〇名に行ったアンケート調査においても、このことは裏付けられています。」
アート的な人「この新商品、イケてると思うんです。だって、こっちの方がかっこよくないですか?」

当然多くの企業では、サイエンス的な考えを採用しています。
サイエンス的な論理で物事を考えてしまうと、行き着く先は同じような答えです。 結果的に成功には程遠くなってしまうといいます。

教訓2 正解のコモディティ化の時代において、必要なスキルは「美意識」だ

前述した「行き着く先は同じような答え」のことを、よく「正解のコモディティ化」といいます。
コモディティ化とは経済の用語ですが、ざっくりいうと「どれも安くなって、ありふれて違いがなくなってしまうこと」という意味です。

正解のコモディティ化の時代、つまり行き着く答えが一つの世界において、次の競争は熾烈な価格競争とスピード競争に陥ってしまいます。

喩えが合ってるか分かりませんが、日本の牛丼チェーンが好例な気がします。
こう言ってしまっては失礼ですが、どこの牛丼屋さんも味に大きな違いは感じません。
多くのお客さんが求めていることは、早くて安いということでしょう。
そして店側もそれに応えようと、サイエンス的な考え方で、人件費と価格を下げていくことで適応しようとしてきました。

そしてこの過剰な価格競争が行き着く先は、深夜の長時間ワンオペといったブラック労働の様な破滅的な事態です。

この深刻なチキンレースに、アート的な視点で「こっちのほうがよくない?」と風穴を空けたのは、松屋の”プレミアム牛めし”ではないでしょうか。
正直、やってみるまではそれで採算が取れる絶対的な根拠はなかったでしょう。
しかし、価格とスピードの競争の中に「プレミア感」という差別化要素を取り入れることによって、値段を引き上げることに成功したと言えます。

また、作中での例としては、ソニーのウォークマンが挙げられています。
ウォークマンは、当時の会長の井深大さんの「海外出張の時に、小型のカセットプレイヤーで音楽を聞きたい」というリクエストに開発部門が応えて作られたそうです。
その特注品を、創業経営者の盛田昭夫さんに見せたところ、これを気に入り、製品化されたそうです。
しかし当時のニーズは「大きなラジオで皆一緒に音楽を聴くこと」だったため、現場では猛反発にあったそうです。

創業者2人のアート的な感性があったからこそ、ウォークマンという世界的ヒット商品が生まれたのですね。
現代の停滞しがちなサイエンス的な価値観に縛られた企業とは、対照的なエピソードです。


教訓3 美意識は、倫理観だ

ヨーロッパのエリートを養成する学校では、文系や理系を問わず「哲学する力」が教養科目として必修となっているそうです。
正義とは何か、美しさとは何か、幸せとは何か…。
彼らは学校教育において、これを考え抜く力を養っていきます。
答えのない問いに対して、自分の感覚や感性を持って向き合う。
筆者は、この哲学をもって倫理観を養う営みは、まさに美意識の涵養に通ずるものがあると捉えています。

今、科学技術は日々更新され続けています。
つまり、これまでのルールが更新され続けている世界にわれわれは生きています。

シンギュラリティといって、AIに人間の知能が追い越されてしまうかもしれない世界が近づいています。
そのような中、あらゆる意思決定をする際に、これまでの法律などの古いルールは役に立つでしょうか。

この様な、論理的に物事を考えることが通用しない世界において、最後の唯一判断の根拠となるのは「倫理観」つまり「美意識」だといえます。

ナチス・ドイツで大量虐殺を実行したアイヒマンという人物について、分析・批判をしたアンナ・ハーレントの言葉が作中で引用されていました。

「悪とは、システムを無批判に受け入れること」

アイヒマンは、恐ろしい殺人鬼のような性格ではなく、いかにも普通の従順な一般人のようであったとアンナは表現しています。
上から指示されるがままに、作業的に虐殺をしていったに過ぎないといいます。

学校教育者として私が思う事は、学校と言うシステムもまた、アイヒマンのような「従順な一般人」を作ってしまっている一面も少なからずあるのではないかということです。

「廊下を走るな」と言う指導に対して、明らかにおかしいと思う人はいないでしょう。当然廊下を走ることは、衝突事故の危険があるからです。
しかし、雨の日運動部が廊下で走って練習していたとしても、これはそういうものだと流してしまう人は少なくないのではないでしょうか。

1年ほど前、地毛が茶色の生徒に対して黒染めを強要したとして、裁判となり問題となりました。
当然この問題以前にも、数え切れないほどの多くの生徒が、涙を飲んだ事は想像に難しくありません。

私は、生徒のような組織の弱者がこれまで声をあげなかったことを批判することはありません。
だからといって、管理職の様な組織の上層部を批判したら解決するという単純な話でもありません。
こういった悲劇を産んでしまうのは、アンナの言う「システムを無批判に受け入れる」という組織文化の悪によるのだと考えます。

ダメなものはダメ
ルールだから守りなさい
去年までもやってきたことだから
社会に出たら通用しないよ

学校現場でよく聞くこの手の言葉は「システムを無批判に受け入れる」言葉であり、美意識に欠けた言葉だと、私は思います。
自戒を込めてこの様な思考を改めるとともに、自らの美意識を磨き、それに耳を傾けることが必要だと感じます。



まとめ

正解が飽和したこの世界において、感性を磨き、美意識をもって問題に向き合うことが重要といいます。
サイエンス的な論理的思考と、アート的な感覚的思考の両輪を回すことで、高い成果につながるとのことでした。
また教育者の端くれとして、この価値観は教育界においても非常に重要な示唆に富んでいるのではないかと、僭越ながら思います。

最近読んだ本の中でも、かなりの良本でした。
オススメです。