KOTOの理科的つぶやき

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「読書」とは、他人の人生のインストールだ!

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先日、なるさわばしこさん(@narusawateacher)の主催するイベント「なるさわばしこLABO第一回」に参加してまいりました。
この回のテーマは、「人生に影響を与えた本を一冊持ち寄り、紹介して交換する」というなんともエキサイティングなイベントでした。
私は渾身の一冊、「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」(飲茶)についてプレゼンしてきました…!

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

他の皆さんのお話も、大変興味深く聞かせていただきました。
交換してGETした本はその日のうちに読み終えてしまいましたし、他にもいくつか気になる本は既に注文していて、家に届くのを待っている状況です笑
とにかく読書好きとしてはたまらない、至福のひとときでした…

ところでもともと私は、小さな頃から本を読むことは好きな子でした。
小4の時に生死について興味を持って江原啓之さんのスピリチュアル系の本を読んでみたり、小5の時に「古武術」についての本を読んでみたりと、今思うとなんとも不思議なチョイスをしていましたが…。

ただ今は、あの頃以上に本が好きになりました。
そして何より「本を読む」という行為の捉え方が変わりました。
今回はそれについての考察を、綴りたいと思います。



「本を読む」ということ

ただ、これまで本を読むと言う行為については、それ以上でもそれ以下でもなく、文字通りただ「本を読む」に過ぎませんでした。
つまり、特にその行為について考えたこともなかったというのが正直なところです。

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しかし最近は、それまでのものとは全く違った意味合いでその行為を捉えています。

読書をしながら「目の前に著者がいて、私に語りかけていて、私はそれを聞きながら相槌をうちながら話を聞いている」そんな感覚に陥ることがあります。

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…というより、それが読書の本質なのではないかと考えます。

なので、私は「読書する」という行為を「紙の本をペリペリめくりながら眺めること」とは定義しておりません。

なので、以下のことは全て本質的には近しい行為だと思っています。
その本の著者に会って直接話をすること、その著者の講演会に行って話を聞くこと、その人が語っている動画を見ること、その人が語っているラジオを聴くこと、アマゾンAudibleなどの書籍の読み上げサービスを聴くこと、そして普通の本や電子書籍を読むことなどです。

なぜこのような結論に至ったのか、これには私のある原体験が元になっています。


地元のガストで6時間!

私には小さな頃から仲の良い幼なじみがいます。
彼は大学生時代、カナダに1年間留学に行っていました。
彼が留学から帰ってきて数日後、久々に会って近所のファミリーレストランで6時間ほど語り合いました。

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彼がカナダでヒッチハイクで大陸を横断したこと、橋の下でホームレス生活を経験したこと、そこで感じた人とのつながりの大きさ。日本と言う国を外から見て分析して感じたこと、教育が専門では無い彼がそこで感じた教育の重要性について…などなど。
強烈に密度の高い6時間を過ごしたことを覚えています。

彼の「”1年間“の留学経験」という時間スケールの人生経験を「6時間」までに圧縮してインストールされた感覚があったのです。
もし自分がカナダに1年間留学するとしたら、単純に1年間と言う時間と、それに見合う資金が必要となります。
しかしファミレスで過ごした6時間とそのわずかな食事代だけで、彼の留学体験のある程度の経験を追体験できました。
さすがに彼の1年間の留学経験の全てを追体験できたとまでは言いませんが、非常にコスパの良い時間を過ごすことができたと言えます。

この体験こそが私にとっての原体験です。
この経験の後に読書をした時、この行為もそれに近い感覚を感じました。
つまりその著者の経験を圧縮して、それを追体験しているような感覚に陥ったのです。
そう考えると、最も効率が良い読書は著者に直接会って話をする事かもしれませんが、本を読む事はそれに近い行為でもあり、YouTubeのその人が語っている動画やラジオを聴くことも似たような行為だと結論づけたわけです。

ホリエモンと何時間も立ち話できるか

元livedoor社長のホリエモンこと堀江貴文さんは、街中で声をかけられる事がたまにあるそうですが、実は快く思っていないのだそうです。
理由としては、彼は移動中などの少しの空き時間にも情報収集や細かな仕事をしているとのことで、それを邪魔される事はたとえ数分数秒であっても煩わしいとのことなのです。

そんな彼に、もし私が道端で

「あ…すみません…!ホリエモンさんですよね??実は私は教育に関心があって、ホリエモンさんに、教育について話を伺いたいのですが、3時間ほどお時間いただいてもよろしいですか???」

なーんて声をかけたとしても、おそらく相手にしてはくれないでしょう。

仮に「これでなんとか!」と1万円札を添えたところで、おそらく結果は同じことでしょう。

しかし、その点で「本」という媒体は非常に優秀なのです。
簡潔にそのテーマ、教育なら教育について、彼は本を通じていつでもどこでも講演をしてくれるのです。しかもその講演を聴く権利を得る為に1万円なんて払ったら、多くのおつりが帰ってきます。
すごいことに、その講演は何度でも聴き直すことができるのです。

しかもその相手は存命の方に限りません、絶対に会うことの出来ない、亡くなった過去の偉人などでさえも、直接話を聴くことができるのです。

これ、相当にすごいことだと思いませんか?

おわりに

私の友人の留学体験は、書籍化しても正直そこそこ読まれそうなエピソードを持っていると思います。つまり、彼の話を本と言う媒体で私が読んだとしても、近しい衝撃は受けたのではないかと思うわけです。
逆に言うと本を読むという行為は、目の前にその人が座っていて、何時間も話を聞くこととそう変わりは無いのではないかと言うふうに逆説的に思ったわけなんです。

つまり、言い換えると「他人の人生経験のインストール」。これが読書の核にあり、その他の行為もこれと同じだと思うのです…!

ただ、私は基本的にデジタル至上主義なので、紙の本を読むという行為が完璧最強の方法とは全く思っていません。

まだ人類は経験そのものを脳内にインストールをすることがまだできないから、上記のような方法が今のところ有効であると言うだけにすぎません。
今の我々のようなアナログな身体のうちは、読書が妥協解としての有効案というだけにすぎません。

もちろんそんな時代になっても、じっくりと本を読むことが好きな人は、それを選択すればいいのです。それを否定するつもりはありません!
ただ、経験そのものを脳内のチップにインストールすることが可能になった未来においては、私は間違いなく読書をすることをやめるでしょうね…笑

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以上、読書の本質についての考察でした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました…!