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「アナログなもの、デジタルなもの、言葉について考える」~落合陽一 写真展「質量への憧憬」での気づき~

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先日、落合陽一さんの写真展「質量への憧憬」に行った。
落合陽一さんは、メディアアーティストと研究者と経営者という3つのわらじを履きながら、世界を開拓しようとしている人。
詳しくは本人による自己紹介を参照。

まず今回の写真展のテーマ「質量への憧憬」について、自分なりの解釈を。

アナログなものと、デジタルなものとの対比について考える。
質量があるものとはアナログなもの。つまり物質。
対してデジタルなものは、質量を持たない非物質。つまりデータによるもの。
アナログなものがあふれていた時代から、デジタルなものがあふれる世界へ移行しているのが今の時代だと思う。
そこで感じるアナログなものへの懐かしさ、もしくはそれに対する憧れ、みたいなものを表そうというのがテーマなのだろうと受け取った。

私はアナログなものとはなんだろう、デジタルなものとはなんだろうと写真を見ながら考えていた。
そこで一つの洞察を得たことを、備忘録として記す。

(※以下の文章は、この写真展の解説ではありません。
氏が伝えようとしている内容を誤解していることも考えられます。
あくまで個人の洞察です。)



1つの写真の前で、ふと立ち止まった。

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思うことをiPhoneのメモアプリに、感じたままに打ち込んだ。

葉を見て思う
圧倒的な情報量を、アナログの葉は持っている。
ミクロで見れば、複雑極まりない三次元構造を持っている。
また時間方向にも、朽ちていく過程を踏んでいる。
今この瞬間の、太陽光に反射した無限のスペクトルのうちの可視光部分だけ、写真として切り出す。
極端に圧縮はするが、それでも記録表現の上ではかなりの解像度を持っている。

言葉はさらに情報を圧縮する表現方法
「葉」という2バイトの情報まで圧縮される。
コミュニケーションの上ではこれで必要十分だ。
しかしそこにある圧倒的な情報量は捨てられてしまう。



アナログなもの

アナログなものの圧倒的な情報量について。
例えば上の写真の様な「葉」を考える。
例えばあの「葉」を、顕微鏡で微細な構造を観察したとする。
とても肉眼では見えなかった情報が隠れている。
さらに言えば、光学顕微鏡ですら観察できない構造もアナログの「葉」は持っている。
理論上、素粒子レベルまでは無限に分解できる巨大な情報量を持っている。

今、外で葉を見ているとしたら、目に届いているその光は太陽光の反射である。
太陽から届く電磁波の可視光以外の無数のスペクトルもまた情報として捉えれば、紫外線や赤外線の情報もそこにはある。

またこの「葉」は時間方向にも情報が伸びている。
つまり、この落ち葉になる前のこの「葉」は、おそらく瑞々しい緑色をしていただろう。
上の写真が取られた時点では、一部黒ずんでしおれ行く所だが、若干の水分は残しているように見受けられる。
そしてまた、ゆっくりと時間をかけて、乾燥し、いずれ朽ちていくことだろう。
アナログな葉は、静止画のような存在としてそこにあるのではなくて、微分的な時間変化を我々は観察している。

また視覚だけでなく、鼻を近づけてみれば匂いもあるし、舐めてみれば味も感じる。
アナログなものが持つ圧倒的な情報量。
当たり前と言えば当たり前だが、改めてこの様な性質について考えた。



デジタルなもの

デジタルなものについて考える。
デジタルなものとは、アナログのその圧倒的な情報量を大幅に圧縮したものだと言える。
しかし、普段の生活でその情報量の粗さを不便に思う事はほぼない。
インスタグラムで投稿された画像を目にする。
ネット上に投稿された画像の一部を画面いっぱいに引き伸ばして、その画質の粗さを嘆くこともなければ、顕微鏡でその画像の一部を観察しようとして、微細な構造が観察できないと文句を言うこともない。

どんなに画質の良い一眼レフのカメラで撮影したとしても、それはアナログなものの圧倒的な情報量を、ものすごく圧縮したデータとして切り取る行為だということに気づく。
可視光以外の波長領域のデータや、匂いや味のデータは捨てられる。
また時間方向について。
10年後、その画像データが朽ち果てることはない。
つまり撮影した画像データは、時間方向への情報は捨ててしまった。

アナログなものと、デジタルなもの。
優劣では語れないが、互いにない特性を、互いが持っている。
アナログなものは、圧倒的な情報量を持っている。
デジタルなものは、永続的にアナログなものの情報の一部を切り取る。



言葉

デジタルなものに保存するということは、アナログなものが持つ圧倒的な情報を大幅に圧縮する行為だ。
同時に言葉もまた、圧倒的な圧縮をする行為だと気づく。

デジタルな画像データは、無限の情報量をもつアナログなものを、20MBまで圧縮する。
さらに言うと、言葉はさらなる圧縮をしてしまう。



200000000000バイトの情報を、わずか2バイトまで落とし込む。

当然アナログがもつ微細な構造や、匂いや味はデジタルの時点で既になくなっている。
デジタルなものを言葉にした時点で、そのビジュアルイメージすらもなくなってしまう。
何の植物の葉なのか、どのような色をしているのか、どのような形をしているのかすらも「葉」という2バイトの情報には載っていない。

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「葉」の画像を見た。

なんのことはない。
自分が経験したのは、たったこれだけのことだ。

巨大な情報をたった数文字に収めることを、普段から何の気なしに平気で行なっている。
2度の圧倒的な圧縮経験を経て、元の情報から多くは捨てられてしまったものの、重要なエッセンスは残しているし、まして普段のコミュニケーションの上では十分に事足りる。

改めて、人間が手にした道具“言語”という知恵について考えさせられる。



おわりに

普段、特に気にもせず、アナログなものとデジタルなものに囲まれて生きてきた。
アナログなものの情報量に意識的になって世界を見渡すと、これは意外と面白いことに気づいた。
ちょうど写真展に行った翌日に、国立科学博物館に行った。
数多の標本が展示されていて、まさにアナログな情報をアナログのままに保存している贅沢な展示群を見た。

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以前訪れた時に普段何気なく見ていた剥製も、近づいて見てみると微細な構造を残していることに気づく。

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帰りに食べた大戸屋の雑穀米も、穀物によってそれぞれ違う味をしていることに気づく。

アナログなもの複雑な情報に意識的になると、見えてくる景色が変わる。
デジタルなものや言葉は、それを圧縮変換する行為。
世界を捉える視座が、変化した気がする。